役割のプレッシャーから自由な私になる
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のおさらいを簡単に。
生きとし生けるもの全てが、宇宙創造と言う偉大な儀式に参加しています。
植物、動物、人間すべて、この偉大な儀式に参加して、消費者でもあり貢献者でもあります。
消費するより多く貢献することが、成長だと言われました。
最も良い貢献は、自分の役割、すべきことを行うことです。
それこそがイーシュワラとのハーモニー、ヨーガになります。
自分は偉大な儀式に参加していることを理解していれば、掃除や洗濯さえ、祈りに儀式になるのです。
そして今回は、第31話「 人とその人の役割の間にある距離」です。
私たちが様々な役割を担っていること、役割を果たすことは喜びです。
なぜなら、役割を果たすことで宇宙創造の儀式に貢献し、イーシュワラとハーモニーがあるからです。
しかしその役割にはまりすぎてしまうと、困ったことも起こります。
例えば、お母さんの役割に没頭しすぎてしまうと、理想のお母さんになるために、自分にも子供にもプレッシャーをかけてしまって、辛くなることもあるでしょう。
先生の役割に没頭しすぎてしまうと、「先生である私の言うことを聞きなさい」、と生徒にプレッシャーをかけてしまったり、 思い通りにならない生徒に対してイライラしてしまったり。
家庭の中でも先生の役割を引きずってしまい、家族に対しても先生として振る舞うことで、家族の関係が混乱してしまうこともあるかもしれません。
そこで、ヴェーダーンタでお馴染みの例え話が役に立ちます。
役者と役の例え話です。
ある役者が、物乞いをする人の役をしています。
自分は物を乞う人ではないと言う事実に気づいていながら、同時に役割として物を乞う人でいるのです。
役者と物を乞う人の距離はゼロ。時間的にも空間的にも役者は役から離れていません。
物を乞う人は役者ですが、役者は物を乞う人ではありません。
役者と物を乞う人の距離は、時間的なものでも空間的なものでもなく、
「 役として物を乞う人は私ですが、私が物を乞う人ではない」
と言うことに気がついているからできる距離です。
私たちが与えられた様々な役割を楽しむために、この距離・スペースを持つ必要があります。
私は母という役割を演じている人であると知るときにだけ、あるいは、父という役割を演じている基本の人であることを知るときにだけ、私はスペースを得ます。
スピリチュアルヘリテージ
父は私ですが、私は父ではないことを知るときにだけ、また、 母は私ですが、私は母ではないことを知るときにだけ、スペースがあります。
(中略)
あなたが内側のスペースを持たないとき、あなたはいつも混乱した中にいます。
なぜなら、問題を持たない役割などないからです。
役割を果たすことは喜びだと言っても、責任も伴い、プレッシャーもあり、辛い時もあります。
そして全ての役割には問題を含んでいます。これが役割と言うものです。
唯一役割から楽になるのは、私と役割の間の距離・スペース、「 役割は私ですが、私が役割ではない」と言う見方です。
唯一の解決は、「役割は私ですが、私は役割ではありません」。
スピリチュアルヘリテージ
役割からの解放をどうか望みませんように。
もしあなたが今の役割から逃げ去ったなら、あなたはまた別の役割にはまります。
役割から逃げ去る方法はありません。
あなたはいつも、ひとつの役割から別の役割を得ます。逃げられません。
唯一の解放は、すでに得ている解放なのです。
あなたは既にある解放を得なければなりません。
あなたが気づいたなら、スペースは既にあります。
それは、「役割は私ですが、私が役割ではありません」なのです。
これは、すでにあります。
「すでに得ている」解放なのです。
そうなんですよね。
私と役割とのあいだには既に距離はあるのに、役にはまりすぎてしまうと、距離がなく、「私は役割」に思ってしまうのです。
スペースに気づけば、それは既にあるのに。
役割から逃れることはできないなら、「 役割は私ですが、私が役割ではない」と言う見方を定着させて、役割から自由な人(役割がないのではなく、役割のプレッシャーから自由)、役割を楽しめる人でいたいですね。
次回も続きます。