優れているとか劣っているとかはなく、ただ違いがあるだけ

月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。

私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。

前回のおさらいを簡単に。

さまざまな「価値」についてのお話が続いています。

前回は、「スタイリャム、成さねばならないことへの専心」。

成さねばならないことを、先延ばししないように。

生活の中で、最も難しいこと、辛いことを意図的に先に済ませる、簡単なことを後にする、これが鍛錬だと言われます。

先延ばしを避けることで、自分自身のすべきことに没頭するのです。


そして、今まで話されてきた価値をどれか一つでも分析するなら、あなたをあるがままに留めると言われています。

あるがままにとは、客観性があり、執着を手放すことからの平静さがあることです。

それはイーシュワラに留まること、とも言えます。

私たちは、限られた視野で物事を見てしまうので、主観的な見方が板についています。

物事をあるがままに見ずに、何かの価値を上乗せして見たり、見下げてみることがあります。

これらは、執着の手放しによる平静さ(ヴァイラーギャ)がないことからおこります。


そして今回は、第43話「 所有感覚がないこと」です。

私たちは、あるがままを客観的に見ずに、私の記憶や考え、心配や価値観を通して物事を見ています。

前回のお話でもありました。

何かの価値を上乗せしてみたり、反対に見下げて見たり。

どちらも主観的な見方ですよね。

自分が持っている価値構造が、どれくらい客観的かを知る必要があります。

それが、傲慢さがない、アナハムカーラ(増長したエゴ)をなくすことになります。


「自分は優れている」という考えも、「私は劣っている」という考えも、実はどちらも傲慢さなのです。

なぜ傲慢になってしまうかというと、

私は何者でもないから、何者かでありたい、というプレッシャーがそうさせてしまうのです。


私もそういうところ、以前はもっと強くあったと思います。

自分に価値がないから、何か人より優れていないといけない、できなきゃいけない、持ってなきゃいけない、そうプレッシャーをかけていて、それが態度や振る舞いに出ていたと思います。


真実は、私こそ全体で、すべてで、イーシュワラであるのだから、優れているとか劣っているとかはないのです。

私たちは、ひとりひとり違っているけれども、優劣はないはずなのに。


ですから、傲慢さがないと言うのは、自己尊厳がないと言うことではありません。

それは傲慢さがないこととは違います。

実際、観念による抑圧がない時、十分な尊厳があります。

あなたに必要な事はそれだけです。

観念の抑圧からの自由が、自己尊厳なのです。

自己尊厳とは、優れていると言う態度のことではありません。

自己尊厳とは、観念による抑圧がないことなのです。

あなたはあなたを正しく感じることです。

あなたが自分自身を良い人であると感じることです。

有能な人であると感じることです。

スピリチュアルヘリテージ


自己尊厳って、自分が優れているから持てると思っていませんでしたか?

自分はこれができるから自分には価値がある、これを手にしているから自分には価値がある、というものではなかったのです。

そういう観念からの自由が、自己尊厳だとは。

自分は優れているとか、劣っているとかの観念からのプレッシャーがないとき、

優れている劣っているという主観的な自己評価ではなく、

正しく客観的に自分自身を見ることができる、それが自己尊厳。

自分を過大評価も過小評価もせずに。

増長したエゴがないことが手放すことであって、それはイーシュワラとの関係に気づかせるものです。


さらに、またイーシュワラとの関係に気づかせるものがあります。

所有者である感覚は、無知から生まれたまったくの観念です。

実際には、誰も何一つ所有してはいませんから。

何かを持っている人が誰もいなければ、皆が豊かな人です。

私は幾つかを所有していると言えるだけです。それはOKです。

あなたは幾つかの所有権を持っていますが、それはOKです。

しかし、所有の感覚が「私」に集約されているとき、所有が事実となります。

それが「私」に集約されているなら、 つまり、私がこれこれの所有者であると言う感覚があるなら、私を小さな人にします。

その感覚からの自由が、私を大きくするのです。

それがまた、あなたにイーシュワラとの関係を気づかせるのです。

スピリチュアルヘリテージ


本当は、誰も何も所有していないのに、「私がこれこれの所有者である」という感覚が、私を小さな人にしてしまう。

私は全体であり、全てであるはずなのに、自分自身をそこに制限させてしまう感覚です。

なので、アサックティヒ(所有者の感覚がないこと)が私を自由にして、イーシュワラとの関わりを保たせます。

そしてイーシュワラがすべてあり全体なので、イーシュワラも何かの所有者ではないのです。


これらのことを理解していくために、最低限、そして最大限必要なことがあります。

それは、

「全てはイーシュワラである」

ということ。

スピリチュアルヘリテージで、繰り返し繰り返し言われていることですね。


私たちが無知から所有者の感覚を持つことは、実は特典なのだそうです。

間違いを犯すことが特典であり、そしてその間違いを正すことができるのもまた特典だと言われました。

人間に与えられた、2つの特典。すごいですよね。


次回に続きます。


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