「すべてがイーシュワラである」という知識
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のおさらいを簡単に。
自分自身とは何か?
私とは、「全てに行き渡っているそのもの」。
それを私たちは幸せな時に体験しているということを言われました。
では、その幸せとは?
幸せは、物(外側)にあるのではなく、内側(気分や考え)にもありません。
幸せな体験をしている時を分析すると、
主体である私が、客体である好きな対象物が手に入って、主体と客体がひとつに溶け合っている状況です。
私自身の本質は、時間や空間に制限されることのない、すべてに行き渡っている意識です。
幸せな体験をしているときとは、
やらなければいけないこと、自分の役割、自分とはこんなもの、
このような自分を制限する考えが取り払われて、制限のなさを体験しているのです。
つまり、自分自身とは、限りのない意識であって、
幸せは、限りのない私自身の体験です。
サッチダーナンダ(サトー存在・チトー意識・アーナンダー限りのないもの)が自分自身の真実です。
私たちが神と呼ぶイーシュワラもサッチダーナンダ。
インドの文化・ヴェーダーンタは、「あなたこそ、神・イーシュワラ」という結論を持っているのです。
そして今回は、第37話「 イーシュワラを知る恩恵」です。
「自分自身とは何か」
「自分自身とは、イーシュワラ」
というお話が続いていました。
今回は、「すべてがイーシュワラ・神である」というヴェーダーンタの話題から始まります。
「すべてがイーシュワラ・神である」というお話は、信じる話題ではなく、理解する話題だと言われます。
対して、「天国がある」という話題はどうでしょう?
天国があるか無いか、私たちの感覚器官や考えで捉えられないことであって、検証ができない、信じる話題です。
「すべてがイーシュワラ・神である」という話題は、天国のように検証不可能な信じる話題ではありません。
なので、「私は神を信じます」というのは曖昧な発言で、正しくは、
「私はわかりません」
「私は理解しようとしています」
という発言になるはずなのです。
ヴェーダーンタの話題は、私の今までと現在の経験、感覚器官や考えで捉えることと矛盾がなく、
「完全に理解していないけれど、きっとそうに違いない、その結論しかないだろう」、という信頼を持って私は学んでいます。
信じるか、信じないかの話題ではありません。
でも、「すべてがイーシュワラ・神である」ということを知って、何か意味があるの?
と思われるかもしれません。
「物質とはエネルギーである」という物理の知識を知っても知らなくても、幸せに暮らせるように、それを知ってどうなの?と。
スピリチュアルヘリテージもし、この知識(ここにある全てがイーシュワラ)が違いを作るとすれば、それは違いを作ります。
私はそう言わざるを得ません。
それは私の人生に違いを作ります。
私自身の態度が変化を請け負うでしょう。
文化の全体が、態度の表現なのです。
ですから、私の人生のあり方が違ってくるでしょう。
私の人生の質が変わってくるでしょう。
たとえ私がそれを完全に理解しなくても、それがある程度の理解であっても、私の人生に大きな違いをつくります。
ここにあるすべてがイーシュワラなのです。
これは、ありきたりの知識の形ではないのです。
「すべてがイーシュワラ・神である」という知識は、完全に理解していなくても、人生に大きな違いを作ります。
私自身、ものの見方が変わり、人生への態度が変わりました。
私の体や考えを含めて、この世界すべてがイーシュワラ。
これまでの経験、人とのご縁、うまくいったことも、そうでないことも、すべてイーシュワラから与えられたものでした。
私たちの文化では、ヴィナヤ、謙虚と呼ばれる価値があります。
スピリチュアルヘリテージ
とても大切な価値なのです。
この特別な謙虚、ヴィナヤと呼ばれる謙虚を、私は他のどの文化にも見ません。
実際、反対の意味が置かれます。
私たちの文化ではヴィナヤがとても大切です。
どこからそれが来たのでしょう?
それは私たちの理解から来ています。
たとえ漠然とした理解であってですらです。
何らかの理解があるのです。ここにある全てがイーシュワラであることの理解です。
自慢げな態度は含まれないのです。
知識があるときはいつも、ヴィナヤがあります。
それが私たちの文化なのです。
すべてがイーシュワラ。
私の目が見えて、考えが働いて、知ることができるのも、私の力ではありません。
イーシュワラから与えられたものです。
すべてがそうなのですから、
「私がやった」
「私には能力がある」
なんて、とても思えなくなります。
次回も、「すべてがイーシュワラである」ことを知ることの恩恵についての話題が続きます。