子育てー自分の中の子供をお世話する
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のおさらいを簡単に。
私たちは、あるがままを客観的に見ずに、私の記憶や考え、心配や価値観を通して物事を見ています。
何かの価値を上乗せしてみたり、反対に見下げて見たり。どちらも主観的な見方です。
「自分は優れている」という考えも、「私は劣っている」という上乗せの見方からおこる考えも、実はどちらも傲慢さなのです。
なぜ傲慢になってしまうかというと、
私は何者でもないから、何者かでありたい、というプレッシャーがそうさせてしまうのです。
自分は優れているとか、劣っているとかの観念からのプレッシャーがないとき、優れている劣っているという主観的な自己評価ではなく、正しく客観的に自分自身を見ることができる、それが自己尊厳。
そして所有感覚についてのお話もありました。
本当は、誰も何も所有していないのに、「私がこれこれの所有者である」という感覚が、私を小さな人にしてしまう。
私は全体であり、全てであるはずなのに、自分自身をそこに制限させてしまう感覚です。
所有感覚からの自由が、私を大きくするのです。
そして今回は、第44話「子育て 」です。
今回、挙げられた価値は、アナヴィシュヴァンガハ。
息子や妻や家などに過剰な愛着がないこと、です。
愛情は、子供が情緒的に安定し、安心して成長するために重要です。
今、インドでも核家族が多くなり、お父さんとお母さんが、子供たちに明白に愛情を示す必要があると言われました。
大家族では、おじいちゃん・おばあちゃんなどの他の家族がその役割を担えていたのです。
子供には、愛情の確認が必要で、その確認ができないと、後から愛情を欲求することになって問題になることもあるそうです。
なぜなら、大人になっても、子供が人の中核だからです。
そして、子供にとって、両親は神であって、両親の喜びに自分が貢献できるなら、子供は自分を貢献する人と感じます。
「私、こんなことができるよ!」「こんなことができるようになったよ!」
お母さんから、「すごいね!」と褒められることが、どれほど大きな子供の喜びになるでしょうか。
お母さんの喜びに、自分が貢献できている、その実感。
両親と言うのは、子供にとって神なのです。
スピリチュアルヘリテージ
そのことが、その子を、生涯を通して貢献する喜びを持った大人にするのです。
単に、奪おう、しがみつこうとする人ではなく。
その人だけが、幸せにダルマに従うことができます。
とても簡単なことなのです。
なぜなら、その人はとてもお世話する人で、愛する人ですから。
すべての犯罪は、子供をおろそかにすることから始まるのです。
もし、子供が両親の喜びに貢献していると感じるなら、それ以上に素晴らしい財産を子供に残すことはできません。
両親が子供にできることで、これが最も偉大なことなのです。
不動産を残すことではありません。
子供が貢献することに喜びを持つ人に成長できれば、ダルマに調和することが簡単です。
なので、愛情を明らかに示す必要があると言われました。
ダヤーナンダジは、子供の認識の中にお母さんの存在がなくてはならないものなので、4歳半までは子供と一緒にいることをすすめています。
いつでも子供が、お母さんがいることを確かめることができるように。
お母さんが見つからない時、子供は「自分が良くない」から、原因は自分にあるとして、見捨てられたと思ってしまうのです。
そして、お世話してもらうために、生き延びるために、子供はとても幸せであるかのように見せようとします。
自分が幸せであると振る舞うと、お母さんは喜びます。
そのように振る舞えば振る舞うほど、子供自身の痛みはすべて「無意識」の中に落とし込まれてしまうのです。
そして、大人になっても、「無意識」がその人を、その人の人生をコントロールしてしまいます。
表面化されていない「無意識」を扱うのは非常に難しいですよね。
しかし、「無意識」は訂正できません。
スピリチュアルヘリテージ
たとえヴェーダーンタとて、それを訂正できません。
これが、「無意識」が表面化するためだけでも、私たちがたくさんの時間を使わなければならない理由です。
さらに、それを扱うためにたくさんの時間が必要な理由です。
ですから、「無意識」がそれほど深刻でなく、普通であることが、とてもとても重要なことなのです。
子供を大きな安心でいさせるために、子供を大切にしていることを、お母さんとお父さんの両方が、子供に感じさせなければならないのです。
これをスネーハ(愛情)といいます。
この、スネーハは大事だけれども、過剰な心配の中では、子供は分裂して適切に育たないため、アティッスネーハ(過剰な愛情)は、本人にも、相手にも良くないと言われました。
子供の認識に、安心としてお母さんが存在するように、わたしたち大人の認識に安心としてイーシュワラの存在があれば、こういったことが可能だと言われました。
子育ての話題は、とても繊細なお話で、子育てしている、していない、していた、に関わらず、後悔や罪悪感を持ってしまうかもしれません。
しかし、ここでのお話は、こうすべきだという強制や、後悔や罪悪感を持たせるためのものではありません。
ヴェーダーンタを学んだ大人である私たちが、自分の中の子供、無意識に蓋をした痛みを癒していくために役立てて頂ければ幸いです。
私もいまだに、ふとした出来事がきっかけで、「まだお母さんの愛情が欲しいと思っていた子供の自分がいる」と気がつく時があります。
このような子供の自分を世話して、「不満足な私」から自由になりたいと思っています。
次回に続きます。