好ましい結果も、好ましくない結果も、等しく受け取るために
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回は子育てのお話でした。
子供が情緒的に安定して、安心して成長するために、愛情を示すことがとても大切だと言われました。
子供が何かできたことを褒めると、自分はお母さんを喜ばすことができた、自分は貢献できる人だ、と感じることができます。
その感覚があることで、ダルマと調和して生きることが簡単になるそうです。
そして、4歳半までは子供と一緒に過ごすことをすすめています。
なぜなら、お母さんを見たい時にお母さんがいないと、子供は自分が悪いから見捨てられたと思ってしまいます。
お母さんの愛情を得たいために、我慢して自分が幸せだと振る舞うこともしてしまうのです。
その痛みは無意識に押し込められてしまいます。
無意識は、私たちの人生をコントロールしてしまうほど強力です。
無意識を訂正することは、非常に困難なので、無意識が深刻にならないように、お母さん・お父さんがそばにいて、愛情を表現することで、安心を与えてあげることが大切であると言われました。
これをスネーハ(愛情)といいます。
子供の認識に、安心としてお母さんが存在するように、わたしたち大人の認識に安心としてイーシュワラの存在があれば、こういったことが可能だと言われました。
このイーシュワラについてが今回の話題です。
そして今回は、第45話「好ましい状況と苦手な状況の両方に対する健全な反応」です。
「ここにあるすべてはイーシュワラである」
何度も何度も、取り上げてきた話題です。
お話を聞いて、「そうだ!」理解しても、この事実をずっと認識し続けることはとても難しいです。
この知識が宿ること(ニシュタ)を拒むものがあります。
私たち自身の「無意識」と生存本能のようなある種の内側の衝動です。
「すべてはイーシュワラである」は事実であって、
その一方で、
「私は個人である」
という観念が、イーシュワラの中にあります。
私個人の体や考えや感覚器官にイーシュワラが行き渡っているけれども、
同時に私は、「この体と考えと感覚器官は私、私のもの」という個人との同一視があります。
世界の中で、私として生きるためには、私と他のものを区別する必要があります。
それに、体自体が持っている生き延びようとする衝動もあります。
これらが「すべてはイーシュワラである」ということの認識に抵抗するのです。
お互い拮抗しているのですから、イーシュワラの認識を保つことはとても難しいことですよね。
イーシュワラの認識を保つために、ある鍛錬が大切です。
その鍛錬のために必要な理解があります。
「 好みの物や嫌う物の発生に関して、いつも、同じく等しく受け取る考えの性質ーサマチッタットヴァム」
(ギーター 13章9番)
サマチッタットヴァム。
スピリチュアルヘリテージ
チッタとは、「考え」です。
私の考え方という意味での、私の反応です。
精神的な反応です。
そして、私が好む物に対しての私の考えの反応は、多少は同じところがあります。
どうか理解してください、多少は同じところがあるのです。
何と比べてかと言うと、私は私が好まない物に気づいたときの、好まない物に対しての私の考えの反応とほとんど同じなのです。
この二つの反応の間には、多少は、同じと言えるある種の似通った反応があるのです。それをサマットヴァムといいます。
以前出てきました「サマットヴァム」と「サマチッタットヴァム」は表現が異なりますが、同じ意味です。
自分の好みの物がきた時の大喜びする反応と、自分が嫌いな物がきた時の失望や痛み悲しみの反応が、多少は同じ、とは信じられないですよね。
「好きな物と嫌いなものに対して、同じように反応しなさい」と言うのは簡単ですが、本当にそうできるのでしょうか?
好ましいものに気づいて、舞い上がりません。
スピリチュアルヘリテージ
彼は落ち着いて、幸せな状況と一つに同化するでしょう。
そして、好ましくない状況にも落ち着いていて、直ちに意気消沈したりせずに、彼のペースに合わせてそれを受け取ります。
幸せに受け取れないようなときにも、「オーケー」という考え方で受け取ります。
こうして、多少は同じところがあるので、サマットヴァムと言われるのです。
好みの状況や嫌いな状況に関して、いつも、同じ考え方があります。
これは不可能、とダヤーナンダジも仰っています。
「 好きな状況も嫌いな状況等受け取ろう」とアドバイスとしてアイデアとして、紙に書いて前に置いておいても、それは不可能です。
これはアイデアではなく、適切に理解されることなのです。
イーシュワラを理解に持ち込まなければ不可能です。
行いの結果は、イーシュワラから与えられるものです。
私たちは、行いの結果を作れる人ではありません。
良い結果も、よくない結果も、イーシュワラから来るものは、プラサーダ(神様からのお下がり)として受け取る、この考え方と態度があれば、サマットヴァムが可能になると言われています。
もちろん、好ましくない結果は、ガッカリするし、悲しいし、怒りもあるし、喜んで受け入れることは難しいです。
しかし、これもプラサーダだと理解して、なんとか受け入れようとします。
神様からのものなら、受け取るしかない、そう思います。
これが鍛練となって、「全てがイーシュワラ」という認識が保てるようになると言われました。
次回に続きます。