「私」と「私ではないもの」の境界線はどこ?
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のおさらいを簡単に。
誰もが「自分の体は自分のもの」と思っていますが、真実は、自分の体でさえ、与えられたものであって、私は自分の体のマネージャーとして、お世話する役割があります。
体を「自分のもの」と思ってしまうことと同様に、私のものでないものを「私のものだ」という感覚、所有感を持っています。
この所有者の感覚が、私を取るに足りない小さな人にしているのです。
「取るに足らない小さな私」という見方が、私を不自由にしてしまいます。
所有というのは、実は単なる「観念」なのです。
体を含めたあらゆるものと私を客観的に見ること(私は所有者ではないという見方)が、物事に対して楽になるんですよね。
今まで見てきたように、私は体や考え、感覚器官の所有者ではないなら、自分自身とは何でしょうか?
そして今回は、第34話「自分自身を見てみる。パート2」です。
今回から、「自分自身とは何か?」の真実に深く迫っていきます。
まずは、自分自身と自分以外の世界を見てみましょう。
この世界を、「私」と「私以外のもの」と分けてみてみます。
私が目や耳などの感覚器官で捉える、この世界のもの全ては、「私」ではありません。
この世界のあらゆるものは、私とは違っています。
「これが私」と指をさして示すことはできませんよね。
一般的に、「私」というと、私の体を示しているようです。
でもそれは、真実でしょうか?
そうすると、「私は体」になってしまいますよね。
「私」と「私でないもの」の境界線はどこにあるのでしょう?
この世界にたくさんの体がある中で、「これが私の体です」というのは、自分自身と体には、親密な関係があるからです。
真実は、体は私ではないのに。
しかし、 私はそれが私だと言います。
スピリチュアルヘリテージ
私の体験がそうなのです。
この体の特徴が私の特徴だという体験です。
これは言葉ではなくて、親密な感覚なのです。
ですから、私がこうして話してる言葉が働かないのです。
この体を持って生まれてきてからずーっと、この体と親密な関係を持って、さまざまな体験をしてきました。
「この体が私」だと勘違いしてしまうほどの親密さ。
「私は体ではない」と理解したつもりでも、すぐにこの親密な感覚に戻ってしまいます。
私の体の特徴、例えば、背が高い低い、肌の色、痩せている太っている、というような特徴が、私の特徴だと勘違いしてしまいます。
その勘違いが、「私は太っているから、ダメだ」とか、自分を否定するコンプレックスにもなりますよね。
これは想像を絶する大きなダメージだと言うのです。
あなたがわかるように、あなたはあらゆるもののようなものではありません。
スピリチュアルヘリテージ
この「私」、つまり、あなたとは何かを、あなたが認識しないなら、この論理だけでは不十分です。
ですから、この私と言うのは何であり得るのでしょう?
私たちも知っているものの中に、何が含まれるでしょう?
あなたが何かを認識するとき、何かを知るとき、 あなたが何かを知らないので、「私は無知です」とあなたが言うとき、「私は疑っています」とあなたが言うとき、「私は知っています」とあなたが言うとき、何がこれらの全てに共通のものでしょうか?
何が共通かと言うなら、 知識が共通です。
それは知識です。知識だけが共通です。
知っている・知らない・疑っている・迷っている、、、
どのような状況でも、認識の移り変わりに気がついています、知っています。
知っているー知識が共通です。
「知識」というと、一般的には、ポットの知識とか、何か対象物としての知識を指すので、ここで使っている「知識」と混乱してしまいます。
ですから、ヴェーダーンタでは、ここで言われている「知識」を「意識」と呼んでいます。
どうやら、私たちが、「私」というのは、この「意識」のようです。
「自分自身とは意識」、次回に続きます。