なぜ神に祈るの?捧げ物をするの?ー帰依者とは
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のお話を簡単に振り返ります。
好ましくない状況に直面したとき、それは自分のせいだと責めたり、失敗したと落ち込んでも、役に立ちません。
状況は、私の行いの結果もあるかもしれないけれど、他の要因もあるかもしれない。
宇宙の法則、イーシュワラから与えられたものである、ということだけが、客観的な見方です。
どのような結果も、イーシュワラからのプラサーダだと受け取る、「プラサーダブッディ」です。
そのようにイーシュワラと私の関係に気づいて、保っていることが、バクティ(帰依)と言われました。
今回は、第47話「異なったタイプの帰依者たち」です。
私は、ヨガ、ヴェーダーンタを通して、初めてインドの文化、特に祈りに触れた時、不思議に思っていました。
「なぜ、障害を取り除いてください」という祈りなのか?
私はずっと、神様にお願いをするときは、
「どうか、志望校に合格させてください」
「希望通りに就職できますように」
「良いご縁を下さい」
という祈りだったので、全然違う祈り方だなぁと思っていました。
ヴェーダーンタを学んで、その意味がわかってきました。
私たちは神に頼んでいるのではありません。
私たちの文化では、食物を与えてほしいと神に願うのはありません。
これは与えて欲しいとか、あれを与えて欲しいというのはありません。
私たちがしなければならないことを私たちはするのです。私たちは、神に障害物を取り除くように頼むのです。
スピリチュアルヘリテージ
妨げを何とかしてもらうように頼むのです。
私たちには見えない領域からの妨げです。
あなたのためにならずに、 あなたを妨げるものです。
ですから、祈りと言うのは、目には見えない変動要因をコントロールする唯一の道具なのです。
自分がどれだけ注意深くしていても、何かの事故に遭うこともあります。
自分ではコントロールできない、さまざまな変動要因があります。
日常生活の中で、常に目に見えない変動要因に私たちはさらされています。
自分がすべきことをした上で、その変動要因をコントロールして、妨げになるものを取り除いてくれるように祈るのです。
さらに、「これが叶ったら、私はこれをします」、何か少しの犠牲を払って祈ることが、祈りを現実にすると言われています。
神様に何かを捧げるのは、祈りをさらに効果的にするためです。
そして、どのようなものを願っても、悪いものはないと言われました。
神様から見れば、私たちの願いは小さいものに見えるかもしれませんが、その人にとっては、その願いに喜びや平安を見ているのですから、何も小さなことなんてないんです。
どれも大事なものです。
祈りによって神との関係を保つ人のことを、帰依者(バクタ)と言われます。
この帰依者には、4つの段階があります。
困難の中にいる時に祈る人が、アールタハと呼ばれます。
「困った時の神頼み」のように。
以前の私はそうでした。
次の段階は、何かを始める時に、祈りと共に始める人を、アールタ・アールティ と呼ばれます。
目に見えない変動要因をコントロールして、好ましい結果を得るために祈る帰依者です。
行いの結果は、自分の行いが生み出すものだけれども、結果を与えるのは、この宇宙の法則として働いている神であることを理解しています。
インドの宇宙観は、「全てがイーシュワラ・神である」という文化です。
ひとりの神しかいない、のではなく、「神しかいない」のです。
インドにはたくさんの神様がいる、とよく言われますが、どの神様も、イーシュワラのある一つの側面や現象を司る統轄神であって、「神しかいない」が本当のところなんです。
神しかいない、という事実が、時として、神しかいないを知りたいと言う願望に人を駆り立てます。
スピリチュアルヘリテージ
「神しかいないということは、私のこの体も考えも感覚器官を含んでいるのですから、と言うことは。。
神しかいないと言う事は、私は全く神とは離れた別のものではないと言うことですよね。
と言う事は、私の真実は何でしょうか?」
この質問が起こらなければなりません。
こうして、神とは何かを知りたい人があります。
このような人を、ジッジニャース・バクタと呼びます。
イーシュワラを知りたい人です。
「神しかいないというのなら、この私もイーシュワラ???」
その宇宙観を私も知りたい、という帰依者は、ジッジニャース・バクタと呼ばれます。
さらに、この宇宙観を知り遂げて、イーシュワラを知っている人は、バクタと呼ばれます。
このように、何を求めて、何を探求するかによって、帰依者が定義されています。
困った時に、何とかしたくて神を想う帰依者、
目に見えない法則としての、結果を与える人としてのイーシュワラを理解して、望む結果のためにイーシュワラを想う帰依者、
そのイーシュワラが私である、という宇宙観を知りたい、と願う帰依者、
この宇宙観を知り遂げた帰依者。
スワミジも仰っていましたが、そもそも神に祈ることができるのは、ありがたいことなんだと思います。
神を知らない、祈ることを知らなければ、誰にも頼れないような、つらい状況の時に、本当に無力になってしまいます。
皆が、祈ることができますように。
次回は行いについてです。