外側のものを外側に置く

月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。

私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。

お祈りのお話が続いています。

何も助けがない、どうしようもない状況の時、唯一できることは祈ることです。

他に何もできなくても、祈ることができます。

何もできない無力感から、私を救ってくれます。

私たち個人としては、何においても限界があります。

当然、できないこともあるのだから、できることとできないことを見極めて、助けを求めるのは賢い生き方だと言われました。

前回の15話は、言葉を使った祈りについてでした。

神を尊ぶ歌を歌う、祈りの言葉を声に出して唱える、マントラを唱えるなどがあります。

私のアーサナヨガクラスの最初と最後も、お祈りをしています。

今回は第16話「考えの行い、瞑想 その1」です。

私がヨガを始めた頃は、「瞑想」についてはあまり知られていなかったのですが、今では「瞑想」もだいぶ一般的になったのかな、と思います。

「○○○瞑想」とか、いろいろありますよね。

私もかつては、そのような瞑想をやってみたことがありました。

でも、なかなか続かなかったんですよね。

ヴェーダーンタを学び始めて、「瞑想」には定義があることを知りました。

伝統的な瞑想の定義は、

「サグナ・ブラフマ・ヴィシャヤ・マーナサ・ヴャーパーラハ」

です。

マーナサ ー 精神的な、考え 

ヴャーパーラハ ー 活動

ヴィシャヤ ー 対象

サグナ・ブラフマ ー グナ(質)をもって現れたイーシュワラ

まとめると、

グナ(質)をもって現れたイーシュワラを対象とした考えの活動

です。


何を考えても言い訳ではないのです。

イーシュワラを想う考えの活動、簡単に言うなら、イーシュワラを想うことです。

考えや呼吸を眺めたりする瞑想法、イメージを使う瞑想法などは、伝統的な瞑想の定義からは外れたものです。

そして、「瞑想は、考えを止めること」「無、になること」と思っていませんか?

私はそのように勘違いしていたので、「無になるなんて、考えをとめることなんてできない。私には瞑想はできない。」と思って続けられませんでした。

そうじゃなかったんですよね。

そしていきなり「瞑想しよう!」を思って座っても、なかなかうまくいかないのです。

考えがあちこち飛んでいってしまって、じっと座っていても、落ち着かないのです。

そのような状況で瞑想するなんて、「それは無茶だよ」と当時の私に言ってあげたいです。

瞑想するためには、ちゃんとステップを踏むことが大切です。

それを行うことで、準備ができていきます。

座る姿勢など詳しいステップは省きますが、大事なのは、

「外側にあるものを外側に置いておく」ことと言われています。

「自分以外のものは、すでに外側にあるのに、何を言っているの?」と思うかも知れません。

しかし私たちは、たくさんの状況を内側に持ち込んでいます。

特に家族、パートナー、とても近しい関係の人に対してそうではないでしょうか?

母を思い出すと、「あの時、なぜこうしてくれなかったんだろう。」

父を思い出して、「あんなこと、こんなことを言われた、そして傷ついた。もっとやさしく言ってほしかった」

会社の上司に対して、「こうしてほしい」

とか思ったり。

外側の人を自分の内側に持ち込んでしまっているのです。

それで気持ちが揺らいだり、感情に振り回されたり。。。

例えば、綺麗な景色を見たら、「わー、綺麗だなー」と思ったりしますよね。

ただそれを受け入れて、「美しいなー」と思う。

「もっとこの山が高かったらいいのに」

「この花の色、もっとこうだったらいいのに」

なんて、自然のものに対して、何かを要求することはありませんよね。

自然を変えることはできないですし、それを受け入れるだけです。

でも、自分の周りの状況や人に対しては、そうはいきません。

特に身近な人に対しては、「こうあってほしい」「わかってほしい」「やさしくしてほしい」、さまざまなことを要求してしまいますよね。

外側のものを、内側に持ち込んでしまっているのです。

それがどれだけ私の考えを乱してしまうか、わかりますよね。

私がそういったものに変わってほしくないと思っても、多くのことに関して、何一つそれをコントロールする方法を私は持っていません。
ですから、私は山を思う時、私は私自身で平和です。
山が私に平和をくれたわけではありません。私た私に平和を作り出したのです。
なぜなら、そういった山々に関して、こうあって欲しいという望みを持っていない私自身に気づいていますから。

スピリチュアル・ヘリテージ

瞑想を始める前に、外側のものを外側に置く、その準備ができれば、自ずと瞑想ができると言われています。

しかし、かなり難しいのです、外側のものを外側に置くって。

そうある(外側のものを外側に置く)ためには、私が人々に自由を与えなければなりません。
たとえ、彼らに変わって欲しいと思う私があるとしても、私は、彼らがあるがままにいる自由を与えなければなりません。
私は彼らがあるがままでいることを許す必要があります。

スピリチュアル・ヘリテージ

なかなか許せませんよね。

要求をしないなんて、難しいですよね。

「こうあるべきだ」と思うことは悪いことでも、間違ったことではありません。

しかしそれを相手に要求することは、相手に自由を与えることにならないのです。

まずは自分がすべきことをします。

そして何もできない、どうしようもないと思うなら、状況がよくなるように、相手のために祈ることはできます。

そうすることが、相手と私、お互いの平和になりませんか?

とても難しいけれど、それができれば、人との関わりの中で、とても楽に生きられると思います。

次回も瞑想の話題が続きます。