好ましくない状況でも、生き生きとすべきことができるには
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のお話を簡単に振り返ります。
「ここにあるすべてはイーシュワラである」
わかったつもりになっても、まだまだ「私は小さな個人で、ちっぽけで」という自分に対する見方を変えるのは難しいのです。
イーシュワラを理解して、認識を保つのに、ある鍛錬が必要だと言われました。
「サマチッタットヴァム」
好ましい状況と苦手な状況のどちらも、ある意味同じとする考えです。
どちらもイーシュワラからのプレゼントだと理解して同じに受け取る態度です。
そうは言っても、好ましくない結果は、ガッカリするし、悲しいし、怒りもあるし、喜んで受け入れることは難しいですよね。
今回は、この続きのお話です。
第46話「好ましい状況と苦手な状況の両方に対する健全な反応、その2」です。
「好ましい状況と苦手な状況を受け入れるということは、我慢して、何もしないということですか?
状況を変えないといけないし、それでは進歩もないですよね?」
こんなふうに思われるかもしれません。
しかし、それは違うのです。
事実を受け入れるとき、私は行いをすることができるのです。
何もしないのではないのです。
怒りや失望や後悔や罪の意識などは、実際には、全く私を助けたりしません。
スピリチュアルヘリテージ
私のエネルギーを奪ってしまいます。私をベッドに運びます。
そうでないなら、私は情緒的に麻痺して感覚を失います。
私は、状況に対応した行いをすることができません。
状況は行いを必要とするのです。
しかし、私は行いをすることができません。
ですから、私は何が起こっているのかに気づいていなければなりません。
「 受け入れる」と言う意味は、「事態はこうである」という把握です。
「何が私にできるか」という意味です。
好ましくない状況に直面したとき、感情的になって反応しても、それはまったく役に立たないし、行いをするやる気も奪ってしまいます。
客観的でないとき、反応を作り出しますが、客観的であれば、「今、こういう状況だ」と把握ができて、その上で、「私はこれができる」と状況を変えるための行いができます。
計画変えることも、やめることも、何か違うことをすることもできます。
しかし、好ましくない状況の中で、怒りや失望に陥ると、何もできなくなってしまいますよね。
過去の失敗によって、「私は失敗する人」と思っていたら、失敗を恐れてさらに何もできなくなります。
ここで必要なのが、以前にもありましたが、「プラサーダブッディ」です。
行いの結果は、私の過去の選択や行いが叶っているけれども、私がコントロールできない要因もあります。
他の人の選択や行いも影響を受けます。
個人である私は、知識や能力にも限界があります。
知らないことやできないことはあまりにも膨大です。
行いの結果は、完全に私に責任があるとは言えないのです。
結果を与えるのは、イーシュワラの役割です。
私ができるのは、行いをすることです。
どのような状況にも対応するためには、このように、プラサーダとして結果を受け取る見方が必要だと思います。
ここで私は、ショックアブソーバーとして役に立つ状況の捉え方を持っています。
スピリチュアルヘリテージ
プラサーダブッディという考えです。
それが実態をよく見てみることを助けます。
私を客観的に見る人にします。
以前にも言いましたように、私が客観的であればあるほど、イーシュワラがあります。
ですから、プラサーダブッディを練習することが重要なのです。
それによって、どんな状況の中でも、私はもっと生き生きとします。
何がイーシュワラであるのかにもっと気づくのです。
あるがままがイーシュワラです。
好ましくない状況に直面したとき、それは自分のせいだと責めたり、失敗したと落ち込んでも、役に立たないんですよね。
状況は、私の行いの結果もあるかもしれないけれど、他の要因もあるかもしれない。
それは私にはわかりません。
宇宙の法則、イーシュワラから与えられたものである、ということだけが、客観的な見方です。
その客観的な見方は、「私は失敗した人」とはしません。
なので、失敗を恐れる必要もありません。
どのような状況でも、生き生きと自分ができることに集中できますよね。
もし思い通りに行かなくても、行いを変えることはできる。
以前の私は、失敗が怖くて、何かを始めたりすることを躊躇していました。
今は、うまく行かない状況であっても、このように受け止めて、すべきことができるように、練習を続けています。
次回に続きます。