自分自身とは?すべてに行き渡っている意識
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のおさらいを簡単に。
自分自身とは何か?という話題が続いています。
一般的に、「私」というと、私の体を示しているようです。
でもそれは、真実でしょうか?
そうすると、「私は体」になってしまいますが、私は体ではありませんよね。
知っている・知らない・疑っている・迷っている、、、
私たちは、どのような状況でも、認識の移り変わりに気がついています、知っています。
知っているー知識が共通です。
「知識」というと、一般的には、ポットの知識とか、何か対象物としての知識を指すので、ここで使っている「知識」と混乱してしまいます。
ですから、ヴェーダーンタでは、ここで言われている「知識」を「意識」と呼んでいます。
どうやら、私たちが、「私」というのは、この「意識」のようです。
そして今回は、第35話「 自分自身とはすべてに行き渡っている意識。」です。
「私」と言う言葉の意味は、「意識」以外のものではありえない、というのが前回のお話。
私たちは、自分自身を「意識的な存在」と認識しています。
つまり、私は自分の存在に気がついています。
と言う事は、存在するというのは、意識なしにはあり得ません。
意識なしで、存在に気づくことなどできないのですから。
私は、意識であり、存在であります。
私たちはよく、考えの対象になっているものを、「意識の外にある」と言ったりします。
ドーナツのことを考えているとき、ドーナツは意識の中にある、と言ったり、
ケーキのことをかが得ている時は、ドーナツは意識の外にある、と言ったりします。
しかし、意識の外にあるとか、中にあるとか言うことはできるのでしょうか?
正しくは、考えの外にある、中にある、考えの対象物かどうか、なのです。
意識の外と言うのはあり得るでしょうか?
スピリチュアルヘリテージ
これは重要なことです。
人々はあなたの部屋にいます。
また、他の人々は部屋の外側にいます。
ここで、人々が空間の外にいるといえますか?
まさにこれと同じことです。
なぜなら、空間そのものが意識の対象物です。
意識の中にあります。
意識が空間の中にあるのではありません。
しかし、空間が意識の対象物なのです。
この例え話でいうと、部屋の中にいても、外にいても、空間の外にいる、とはいえません。
部屋の中も外も、空間です。
私がどこにいても、空間の中にいます。
同じように、意識である私が、ある一つの考えを捉えているとして、その捉えている考え・対象物と、意識である私との間に、空間・距離・時間はありますか?
ありませんよね。
意識の中に、対象物としての考えがあり、意識である私とその考えとの間に距離は0です。
離れていません。
目の前にあるテレビと、私の体との距離はあります。
しかし、目の前にあるテレビと、意識である私との距離はありますか?
ありませんよね。
夜空の星を想像しているとき、意識である私と、想像した星は離れていますか?
距離は0です。離れていません。
そして、空間と、空間の中にあるものには距離がありますか?
空間と、私の右手との距離はありますか?
ありませんよね。
なぜなら、空間は全てに行き渡っているのですから。
そして、意識である私はどうでしょう?
意識である私と、私の右手の距離はありますか?
意識である私と対象物との距離は0です。
ですから、私は今こう言わなければなりません。
意識というのは、空間に制限されていません。
意識は空間の中に居場所を得てあることではありません。
理解しましたか?
それは空間の中に場所を持つ何かではありません。
意識の中に空間は場所を得てあります。
その中にすべてのものが場所が置いてあります。
あなたがものを見るとき、空間があることを示しています。そして時間もです。物は空間と時間があることを示していますが、意識の中に存在します。
スピリチュアルヘリテージ
そのものは来たり去ったりしますが、意識は空間に制限されていません。
空間に制限されていないものを、私たちがすべてに行き渡っているといいます。
すべてに行き渡っています。
「意識である私は、全てに行き渡っている」
だから何?って思いますよね。
私たちは、この「全てに行き渡っているそのもの」を体験しているといいます。
特に幸せな時はいつも。
「全てに行き渡っているそのもの」が私たちが欲しいものそのもので、それが私を幸せにするというのです。
次回は、幸せについてです。