「私のもの」という所有感が自分を不自由にする
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のおさらいを簡単に。
誰もが「自分の体は自分のもの」と思っていますが、それは本当でしょうか?
私のものなのか、この体を産んでくれた母のものなのか、養ってくれた父のものなのか?
この体を作った、過去に食べたもののものなのか、お腹の中に生息しているアメーバーのものなのか?
そんな例え話から、
「私の体は、イーシュワラから与えられたもので、私のものではない。
私はこの大事な体を信頼されて預かっているマネージャーです」
という話でした。
「私の体」だと思うから、体を粗末に扱ったり、自分を苦しめてしまうこともあるのです。
役割と自分自身のスペースを認識することで、役割を楽しめるように、体と自分自身のスペースを認識することも、大切な役割なんですね。
そして今回は、第33話「自分自身を見てみる。パート1」です。
私は体の作者でも、所有者でもなく、イーシュワラから与えられた体のマネージャーである、と前回のお話で言われました。
私以外に、私の体にふさわしいマネージャーはいません。
空腹や体の痛み、身体が元気かどうか、認識できるのは私だけなのですから。
この論理を、体だけでなく、全ての物事に当てはめることがえきます。
車や家も、厳密にいうと私はその所有者だということはできません。
法律上、所有権を持っている、という肩書きはありますが。
知的財産も同じです。
私が発明したもの、発見したものも、この発明の前に貢献したたくさんの人々がいます。
発明に必要な知性や感覚器官も、すべてイーシュワラから与えられたののです。
車や家のもとになる材料も、イーシュワラから与えられたものです。
何一つ、完全に所有者と主張できるものなどないのです。
同じ理論を広げて、私は信頼されてこの体を任されているマネージャーであって、所有権を主張できる立場にはないことが、何を隠そう、実はそのことが、あなたに自由を与えるのです。
スピリチュアルヘリテージ
それが、私たちの文化では、テャーガが大事にされている理由なのです。
テャーガとは、所有者であるという感覚からの自由です。
私たちは、私のものでないものを「私のものだ」という感覚、所有感を持っています。
この所有者の感覚が、私を取るに足りない小さな人にしているのです。
「取るに足らない小さな私」という見方が、私を不自由にしてしまいます。
所有というのは、実は単なる「観念」なのです。
あなたが関わる物事からあなたが自由であればあるほど、身近にかかわりを持つように与えられた物事を、ますますあなたは楽しみます。
スピリチュアルヘリテージ
それは子供かもしれませんし、パートナーでもあります。全ての物事です。
ですから本当は、人がこの所有の観念から自由であるとき客観的であって、人はそれらを楽しむことができるのです。
「この体は私のもの」
「この考えや感覚は私のもの」
体や考えを自分のものとする見方から、私の周りのものも「私のもの」という所有の観念を持ち、私を不自由にします。
体を含めたあらゆるものと私を客観的に見ること(私は所有者ではないという見方)が、物事に対して楽になるんですよね。
今まで見てきたように、私は体や考え、感覚器官の所有者ではないなら、自分自身とは何でしょうか?
インドのスピリチュアルな文化と、自分自身は何かの真実は切っても切り離せない関係にあります。
「自分自身とは何か」の真実は、次回に続きます。