人が本当に求めているものは?お金?地位?家族?それとも?
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回まで、祈りという行いのなかで、考えを使った行いである瞑想についてのお話でした。
伝統的な瞑想の定義は、
「サグナ・ブラフマ・ヴィシャヤ・マーナサ・ヴャーパーラハ」
グナ(質)をもって現れたイーシュワラを対象とした考えの活動
です。
瞑想の前の準備として、「外側のものを外側に置く」ことの必要性が述べられ、
前回はジャパ瞑想の効果についてでしたね。
あちこへちふらふらしてしまう考えの手綱を、しっかりと自分で握ること。
そうすることで、つい癖になっている考え方や感情へ行ってしまうのを防ぎます。
このようにできれば、人生での様々なことが、上手に扱えるのではないでしょうか。
瞑想の話題は前回でひとまず終了しました。
今回から、あらためてイーシュワラの話題です。
第19話「イーシュワラとの関わりを発見する」です。
ヴェーダの世界観では、イーシュワラ(神)は、この世界の創造主であり、さらに創造された世界でもあります。
この世界の物質の源と、この世界の作者はひとつの同じものだと言っているのです。
私たち人間の体も、考えや感覚器官も、この現れたイーシュワラである世界の中にあります。
ということは、私もイーシュワラの現れです。
私以外の人も、動物も植物も、生き物でないものも、すべてがイーシュワラの現れであり、イーシュワラでないところはありません。
ところが、私たちにはそうは見えませんよね。
私とイーシュワラも、この世界とイーシュワラも別のものに見えています。
様々な質を伴って、形や名前を伴って現れているこの世界。
とても同じとは見えません。
イーシュワラと世界が異なったものだと見てしまうことから、私たちは様々な問題を抱えます。
広大な世界の中にいる、「小さな」私。
小さくて、無力な私は、なんとか大きくなろうと、何かを得たり何かを身につけようと頑張ります。
しかしどんなに頑張っても、個人としての私は「小さい」ままだし、限界があります。
結局のところ、「私は小さい」という見方を変えなければ、解決しないのです。
古典的な例え話ですが、
小さな波くんが、実は自分は雄大な海なのに、「自分はちっぽけな波だ」と嘆くようなもの。
自分は波でもあり、海でもあることに気がつく必要があるのです。
「小さい私」という見方があるから、なんとか大きくなろうとする人生の葛藤が起こります。
大きくなるために、お金や名声や地位、パートナーな友人等の人間関係を得ようと、満たされようと行いを繰り返します。
お金が欲しい、家族が欲しい、、、その欲しいものとは、それによって安心や喜び、平和を得られると思っているからかもしれません。
もちろん、それらを求めるのは当然のことで、何も悪いことではありません。
でもその欲しいものを分析すると、絶対的な安心を求めているのではないでしょうか?
私とイーシュワラが別のものだという見方からうまれる、不安感を解消したいのかもしれません。
聖典では、人が本当に求めているものは、探しているものは、イーシュワラだと言っています。
人間は知的に生きなければなりません。
スピリチュアルヘリテージ
最低限の知識を必要とします。
知的に人生を生きるということは、何がなんたるかを理解するということです。
何がなんたるかがイーシュワラなのです。
それなしに、人は人生を生きることなどできません。
社会に出た時、就職した時、最初に研修を受けましたか?
私も一通り学びました。
挨拶の仕方、電話の受け答え、上司への接し方など、社会人として必要な知識を身につけたと思います。
もし基本的なマナーなどの知識がなければ、仕事はうまくいかないし、人間関係もきっと満足できるものになるとは思えません。
知らないばかりに、うまくいかない、惨めで無力な気持ちになります。
同じように、人生を生きるためには、最低限の知識が必要だというのです。
最低限の知識とは、イーシュワラと世界、自分自身のことです。
なぜなら、私が人間の子供として生まれたとき、私は何も機能を持っていません。
スピリチュアルヘリテージ
私は何も身を包むものを持っていないし、私を守るものをもっていません。
ひとつ理解しなければならないのは、どのような生き物も「生きたい」ということです。
それには選択はありません。これが選択のない本能なのです。
生き物として生まれてきて、生き物は生き延びるために懸命になるプログラムがあります。
しかし、人間の赤ちゃんにとっては、この生き延びることが不可能になります。
なぜなら、人間の赤ちゃんは100%無力ですから。
100%無力であるとき、自立した生活をするための食べ物を見つける能力も持っていません。
何という始まりでしょうか?
そうなんですよね、人間の赤ちゃんは、全くもって無力で、お世話をしてくれる人がいないと、生き延びることはできません。
そして、赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいたとき、その時が唯一、人が安心を感じる時だと言うのです。
それよりも安心を感じる時期は他にはないと。
「あなたは赤ちゃんのころから、人一倍不安がってた」と、私は母によく言われていました。
母が離れると、すぐ泣き出して大変だったそうです。
お母さんがいれば安心ですが、いなくなると途轍もない不安が襲っていたのでしょうね。
そして成長して世界を知ることで、不安がなくなったこともありますが、知ったからこそ不安になることもありました。
そしていまだに、完全に不安がない、とは言えません。
やはり安心を求めているのです。
次回は、この赤ちゃんの無力の意味をみていきます。