インドの文化とスピリチュアルな叡智
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のお話を簡単に振り返ります。
前回は、カルマとダルマの法則のお話でした。
行いには、必ず結果がもたらされます。
目に見える行いの結果を、「ドリシュタ・パラ」
後々実る、目に見えない行いの結果を、「アドリシュタ・パラ」と言います。
アドリシュタは、ポジティブなものと、ポジティブでないものがあります。
ポジティブなものは、プンニャと呼ばれ、心地よい経験として返ってきます。
ポジティブでないものは、パーパと呼ばれ、心地よくない経験として返ってきます。
プンニャはどのように得られるのかというと、
可能な限り自由な自由意志によって得られます。
それは、祈りと、助けの手を差し伸べること。
そして、助けの手を差し伸べることは、人間のダルマ・すべきことなのです。
慈愛に満ちた生き方が、人間を人間とするのです。
ダルマ、という普遍の秩序法則に基づいて、プンニャとパーパのカルマがあります。
コインの表と裏のように、ダルマの法則の片側がカルマの法則です。
ダルマは神なので、ダルマに反することになるのです。
神のために、神に反する行いをしませんように。
今回は、第50話「古代インド文化の深淵さを学ぶ」です。
インドの文化は、宗教と切り離すことはできません。
そして宗教は、スピリチュアルな叡智と離れていません。
宗教的な儀式はスピリチュアルな叡智から現れたもので、
また叡智を生み出すものがその宗教的な儀式でもあります。
インドの文化を理解するには、
その源、壮大なヴェーダの文献を辿る必要があります。
インドの絵画や彫刻などの美術や古典音楽の中に、
その叡智が明かされています。
そしてそれは、失った古代の文化のことではなく、
今も生きている文化です。
インド以外の文化では、
人間のために世界が作られ、
世界は人間が体験して消費するためにあるという世界観があります。
しかしインドでは全く違っていて、
「この世界は神から現れたもので、全てが神」
という世界観です。
私の体や感覚器官も神の現れです。
自分が生きる権利があるなら、他のものも同じ権利を持っています。
自分が傷つけられたくないのと同じく、他の人も動物も、すべて傷つけられたくないはずです。
私たちが生きるためには、多少なりとも、何かを傷付けることは避けられません。
そのパーパを中和するために、祈りや助けの手を差し伸べる行いをするのです。
命は、命に頼って生きています。
スピリチュアルヘリテージ
私たちは、世界と共生の関係を持っています。
私は世界を守ります。
そして、世界が私を守ります。
私がダルマを守ります。
そして、ダルマが私を守ります。
この認識が、今日、私たちが生きる方法なのです。
それが、世界全体の体系を神として認識している生き方、
とても注意深く丁寧な生き方です。
そして、私の人生も、世界全体の体系の中にあり、
私は世界の中で孤立した存在ではないのです。
この「スピリチュアルヘリテージ」は、インドの人々に向けたテレビ番組なので、
インドの人々に、この文化の理解を求める言葉が話されています。
インドの文化に無頓着な態度は、
生まれながらに身につける権利がある貴重なものを手放すことになると。
スピリチュアルヘリテージ
私たちのこの文化は、とても気づいている文化なのです。
とても洞察の深い、思いやりのある文化なのです。
ですから本当に、人はこういった文化の全てを学ぶことに専念しなければなりません。
そうでなければ、これはまるで混乱させるかのように見えます。
まるで多様性のあるものに見えます。
あなたはまるで、迷信のように見えるかもしれません。
なぜなら、人は理解しませんから。
何も理解するものがないので理解しないのではなくて、人は理解するために時間を使わないからです。
理解をするために心を払わないのです。
そうであるのに、非難する準備はいつもできています。
科学的ではない、機能的ではない考えがそれをします。
非難したい人、非難する人は誰でも、最初に学ばねばなりません。
何であれ非難するために、これについてのすべてをその人は学ばなければなりません。
あなたが、これについて全てを知ったなら、何も非難するものがありません。
理解するために、時間や心を使わないのに、簡単に非難してしまう、
そのような自分の傾向があるな、とハッとさせられました。
非難するならば、そのことについて全てを学び知ってからするものだ、と。
全てを知らないのに、非難する権利はないですよね。
理解すること、理解し合うことが、人間同士の問題を避けることだということも思いました。
次回はに続きます。