自分と相手のために、受け入れること
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のおさらいを簡単に。
イーシュワラの理解が深まると、自分はさらに与えられているといういうことが発見できます。
そして、私が自分と他の人を理解することを易しくします。
思いやりが自然になり、自分自身の成長につながります。
心理学的な法則として現れているイーシュワラを理解することで、
自分に対して、
「こうしてしまった、あんなことをしてしまった」
「あれをしてあげられなかった」
というような後悔や罪悪感、
また、両親や家族、周りの人に対して、
「こうして欲しかったけど、してもらえなかった」
「こういうことはして欲しくなかった」
というような痛み、
それらを思いやりをもって、見直すことができます。
私が、そうしてしまったこと、してこなかったこと、それらにはイーシュワラの秩序の中で、そうせざるを得ない背景があったということ。
そのように自分自身を理解すれば、他の人に対しても、同じ理解を広げてみることができます。
私がそうであったように、あの人にも背景があって、そうせざるを得なかったんだな、と。
このように、私自身と周りの相手へ思いやりを持つことは、イーシュワラからの恩恵なのです。
そして今回は、第39話「許容する能力」です。
私がしてしまったこと、できなかったことは、背景があってそうせざるを得なかったこと、
そして私にあんなことをした人、してくれなかった人も、その人の背景があってそうせざるを得なかった、
と理解して、自分にも、周りの人にも思いやりを持つこともイーシュワラの恩恵だと言われました。
その思いやりが、忍耐や許容、そして客観性を与えるのです。
主観的な見方から、客観的な見方、つまりありのままを、イーシュワラを見なければなりません。
イーシュワラに気がついていることが、思いやり深くあること、客観的でいるということなのです。
成熟した人の特徴を言うなら、他の人からの承認欲求や、自慢したい心がないことや、アダムビットヴァン、虚栄心がないこと、そして、アヒムサー、傷つけないことです。
スピリチュアルヘリテージ
アヒムサーがあるなら、思いやりが自然なものとなります。
思いやりがあるなら、クシャーンティもまた、とても自然になります。
クシャーンティ、受け入れる能力はとても大切です。
受け入れること、許容と言うのは、 例えば、あなたがある人を理解していて、その人自身の立場にとどまることを許せると言うことです。
ただし、その人があなたのつま先を踏みつけて立っていない限りです。
どうかわかって下さい。
私たちは境界線の仕方を学ばなければなりません。
外側のものを外側に置くこと、そしてその境界線がとても大事です。
境界線を引くことで、私も相手も傷つけ合わない、アヒムサーの練習にもなるのです。
自分のためにも、相手のためにも。
人々を外側に置いておくためには、私に理解や思いやりが必要になります。
「私の見方においては、その人はそういう人です。
それは本当かもしれないし、間違っているかもしれない。」
自分の見方というものは、主観的なものです。
少しでも客観的に、あるがままに見るために、このように考えるのです。
それは相手のためではなく、自分のために。
このように境界線を引くことで、私には自由があります。
さてこうして、外側にあるものを外側に置くと言う能力も、思いやりが必要なのです。
スピリチュアルヘリテージ
思いやりが、どれほど大切かを理解してください。
思いやりがあるなら、私は人々を受け入れることができます。
クシャーンティヒです。
私は、その人がそうあることにOKを出せます。
イーシュワラの理解からの思いやりが、他の人を受け入れる能力、クシャーンティももたらします。
そのように人間関係を保っていけるなら、私も相手も自由で、快適ですよね。
次回も、受け入れること、その他大事な価値の話題が続きます。