思いやりこそがイーシュワラ
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
前回のおさらいを簡単に。
ヴェーダーンタの結論は、すべてがイーシュワラであること。
あなたも、私も、この世界に現れているもの全てです。
「すべてがイーシュワラ・神である」ということを知って、何か意味があるのでしょうか?
ダヤーナンダジは、人生への態度が、人生の質が変わると言われました。
よくよく周りを見渡してみると、
「自分が手に入れた」
「自分がやった」
と思っていたことは、すべてがイーシュワラから与えられたものでした。
インドの文化にある特別な謙虚さ「ヴィナヤ」。
イーシュワラを知れば知るほど、「私が」「私が」と主張できることなどないことに気が付きます。
自然と謙虚な態度が生まれるし、生き方が変わります。
そして今回は、第38話「 思いやりの発見」です。
イーシュワラを理解することが、謙虚さにつながるというのが前回のお話でした。
さらにイーシュワラの理解が深まると、自分はさらに与えられているといういうことが発見できます。
それが私をリラックスさせるのです。
そして、私が自分と他の人を理解することを易しくします。
思いやりが自然になり、自分自身の成長につながります。
スピリチュアルヘリテージ思いやりは他の人と同じく私を包みます。
思いやる過程で、私だけでなく他の人にも優しさを発見することを助けます。
そして、自分自身に対しての優しさの発見は、イーシュワラから受け取ることのできる最も大きな祝福です。
自分自身に、そして、他の人にイーシュワラを発見すること自体が祝福です。
それによって得るものは、ありきたりのものではありません。
私は、思いやりのある人に成長しなければなりません。
まずは、私自身の探求です。
まずは自分自身への思いやりとは、どのようなことでしょう。
誰もが、自分に対して、
「こうしてしまった、あんなことをしてしまった」
「あれをしてあげられなかった」
というような後悔や罪悪感、
また、両親や家族、周りの人に対して、
「こうして欲しかったけど、してもらえなかった」
「こういうことはして欲しくなかった」
というような痛みを抱えています。
それを忘れよう、許そうとするのではありません。
すべてがイーシュワラであって、この世界を維持する秩序法則もイーシュワラ。
心理的な法則も、イーシュワラ。
この心理的な法則は、 私たちが自分自身に優しくあるために、とても大切な理解となります。
スピリチュアルヘリテージ
つまり、何かの背景があるために、私自身がしてしまったことやできなかったことがあったと理解することができるのです。
私は私自身優しくなることができます。
思いやりは私に対して始まります。
私は自分私に思いやり深くあることができます。
全体の秩序の中に、私がそうしてしまう背景となる必要があるのですから。
この心理学的な法則として現れているイーシュワラを私が理解するなら、 私がそうであったことから違ったようにはできない定められた背景があったと言う理解を私に与えます。
私が、そうしてしまったこと、してこなかったこと、それらにはイーシュワラの秩序の中で、そうせざるを得ない背景があったということを理解します。
そのときしてきたことやできなかったことが、全て正しかったと言っているのではなく、ただ、そのとき私ができたことは、あれだった、ということです。
そのように自分自身を理解すれば、他の人に対しても、同じ理解を広げてみることができます。
私がそうであったように、あの人にも背景があって、そうせざるを得なかったんだな、と。
このように、私自身と周りの相手へ思いやりを持つことは、イーシュワラからの恩恵なのです。
次回も、思いやりや自分自身の成長についての話題が続きます。