客観的に人生を生きるために

月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。

私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。

前回は感情のお話でした。

どのような感情も、原因があって現れているし、その感情も神の現れです。

怒りでさえも。

怒りの原因は、私の中にある、満たされなかった願望・痛みです。

何かの出来事で、その痛みが刺激され、怒りとなって現れます。

誰もがこの痛み・脆い部分を持っているのです。

怒りを自分以外のもののせいにしてしまいがちですが、

実は自分にあるんですよね。

怒りに任せて何かを傷つけたりせずに、自分で怒りの感情をお世話することを言われました。


そして今回は、第26話「全てが神聖」です。

これまで、物理学・生物学・医学、そして心理学と、さまざまな側面でのイーシュワラ・神の現れを見てきました。

このように、イーシュワラを人生に持ち込むことで、客観性のある人生を生きることができるのです。

私の心配や不安、恐れは、イーシュワラへの気づきが少なく、主観的な見方によって起こります。

不安や恐れなどの感情も、イーシュワラの現れだと理解すれば、冷静に対応できますよね。

そして嫉妬も、主観的な見方によって起こります。

私たちの文化で、嫉妬は、マーッサルヤムと言います。

それは人が注意深く見なければならないものです。

それはその人を食い物にしてしまう感情です。

それはサンターパ、痛みです。

腫れあがった痛みです。

その人が成し遂げたかった何かを、他の人が成し遂げるのを見て起こる痛みです。

スピリチュアルヘリテージ

「その人が成し遂げたかった何かを、他の人が成し遂げるのを見て起こる痛みです。」

そうそう、そうです、おっしゃる通りです。

自分にないものを持っている人を羨ましく思います。

私は「いいなー」と言うのが口癖で、本当によく言ってます。

嫉妬を見てみるなら、 それは私の安心のなさから怒っています。

自己尊厳が低いことからです。

そして当然のことながら、その自己尊厳の低さにも何かの背景があります。

そして、その背景と自己尊厳の低さの間には、サンバンダ、 つながりがあります。

そしてそのつながりそのものが秩序によってつながりとなっています。

スピリチュアルヘリテージ

嫉妬は自己尊厳の低さや安心がない、という背景があって起こりますし、

自己尊厳の低さや安心がないことにも背景があります。

背景があることを理解すると、つまり客観的に嫉妬を見ると、

つながり・秩序がある、という事はイーシュワラの表れです。

嫉妬をこのように見ることができれば、私自身と嫉妬という感情の間にスペースができて、

感情に振り回されることがなくなります。

このように、物事の背景にあるイーシュワラの存在を見ることが客観的な見方になるのです。

ダヤーナンダジは、これをスピリチュアルな実用主義と呼んでいます。

客観的であるために、イーシュワラを生活に持ち込むことが大切だと言われています。

イーシュワラがあればあるほど、 ますます私は客観的な見方をします。

嫉妬を受け入れる余裕があります。

しかし、ここにある全てがイーシュワラであると言うために、その客観的な見方でいるために、

私はその感情から出て来なければなりません。

ですからもはや、嫉妬している人として自分を判定したりしません。

もはや私は自分が嫌悪の人だとみなしません。

もはや自分を怒りの人であるとみなしません。

私は十分な自己尊厳を持っていて、個人としてそれはさらに向上したりし得ません。

スピリチュアルヘリテージ

「全てがイーシュワラである」と言う理解から、とても客観的な視点が生まれます。

それゆえに、インドの文化は高度に実用的なのだと言われています。

世俗を離れた宗教や禁欲主義ではありません。

すべてがイーシュワラなのだから、世俗的なものは何もないのです。

すべてが神聖なのです。

どのような姿の知識も神聖です。

お金だけでなく、不動産、家族、子供、農産物、勇気、成功、、、、あらゆる富も。

人生の全探求が、ラクシュミー(富の女神)かサラスヴァティー(知識の女神)を探しているのだそうです。

確かにそうですね。

すべてにイーシュワラを見るために、まだまだ学びは続きます。


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