与えることと祈りの目的
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
なかなか自分を受け入れられない、自己尊厳持つことができない、
そういった、自分に対する見方から、
何のために生きているのか悩んだり、自分はうまくいってないと卑下したり、自分を受け入れるために、様々な願望を叶えようと、時にはアダルマ(倫理に反すること)をしてしまったり。
誰もがそういった経験があるかと思います。
人生における成功とは、嬉しい結果も、がっかりするような結果でも、与えられた結果をうまく扱えることと再定義されました。
そのためには、ダルマ(秩序・倫理)に沿った行いをすることであり、それが成功の感覚を与えてくれます。
この成功の感覚が、自己尊厳を与えることにもなる、相互依存の関係があります。
一般的に「成功」というと、良い成績を修める、仕事で業績を上げる、家族に恵まれる、お金などの物質的な豊かさがある、などなど、そんなふうに思われていませんか。
自己尊厳を持つために、上にあげたような「成功」を手にしたいと思うのですが、それではどこか満たされません。
本当にそれが私の欲しい「成功」なのだろうか?
ずっと私はそう疑問に思っていたので、ダヤーナンダジが伝えているこの「成功」と「自己尊厳」のお話は、一般的な意味での「成功」とは別の基準を示してもらえて、私が求めているのは、こういうことだと改めて思いました。
人間には自由意志が与えられ、「する、しない、するならどのような方法で行うか」を選ぶことができます。
ダルマに調和することも、ダルマに反することも選べます。
私には、ダルマと調和することがよいと分かっていても、できないときがあります。
自分の自由意志が弱いから、ダルマな行いなのに、自分がしたくないことはしない、アダルマな行いなのに、好きだからしてしまう、そのようなことが日常の中では多々あります。
気づいていることも、気づいていないことも。
第11話では、ダルマを選ぶための必要な自由意志を、どのように強化するかというお話でした。
自分自身の強さ・アートマ・バランを得るためには、助けが必要です。
外側の助けとして、サットサンガ。価値観が同じ仲間とのコミュニティ。
内側の助けとして、「祈り」と、もう一つが「与えること・援助の手を差し伸べること」。
見返りを期待したり、認めてもらうため、自分の価値を高めるため、そのような他のことのために与えるのではなく、ただ与えること。
与えることができることを喜び感謝して、自分の成長のために与えるのです。
続いて第12話は「祈り」です。
与えることと祈りについてのお話をさらに深めていきます。
第11話でも言われましたが、与えること・援助の手を差し伸べることで、好き嫌いや、「これを叶えないと自分はダメだ」というようなプレッシャーから生まれる願望に振り回されることなく、自分の内側の強さを汲み上げます。
行いには必ず結果が伴います。
行いをしたその時に得られる結果(ドリシュタ・パラー目に見える結果・直に体験できる結果)と、後に得られる結果(アドリシュタ・パラー目に見えない結果・後に体験できる結果)が得られます。
アドリシュタ・パラは、いつどのように実るかは、イーシュワラの采配なので、私たちにはコントロールできません。
自由意志を使って、周りの人を助けるというダルマな行いをしたとき、自分自身も適切なことができて満足しますし、その行い自体に喜びがあります。
また、助けた方が良い、助けたいと思っているのに、なかなか声をかけられなかったり、手を出せなかったり、見て見ぬ振りをしたことはありませんか?
そういう時こそ、勇気を出して、自由意志を使い、助ける行いをする、それが自由意志を強化する練習になります。
この行い自体の喜びや、自由意志が強くなることが、ドリシュタ・パラです。
そしてこの行いが、のちに自分が困った時に助けてもらったり、何か心地よい体験として返ってきます。
それがどのように実るかは、私たちにはわかりませんが。
それがアドリシュタ・パラです。
「もうダメだ」という時に思いがけず良い方向に物事が進んだり、予想以上の結果が返ってきたことは、誰もが経験していると思います。
イーシュワラの慈悲・プンニャとも言います。
人間には自由意志が与えられていると言うけれども、自分が選択する時に、どれだけ自由意志をちゃんと使っているのか、振り返ってみるとわかることがあります。
完全に自分の自由意志で選んでいることは実は殆ど無くて、周りの人の目を気にしたり、損得を考えたり、好き嫌いに振り回されたり、無意識に選択していたり、自由意志と言いながら、実はそれほど自由ではないのです。
援助の手を差し伸べるときも、見返りを期待したり、評価されるためにするのではなく、「ただ助ける」ことは、自由意志を自由に使う練習になります。
困難な状況にいる人を見たとき、私たちはその人と同じような悲しみや痛みを感じます。
その痛みを取り除くために、他の意図を持たずに「ただ助ける」。
助けなくても、誰も咎めないけれど、それでも助けることを選ぶ、その自由。
しかし、この「ただ助ける」ことにも、他の行いのように、完全に自由意志を使うことが難しい状況もあります。
自分の罪悪感や周りの人からの目を気にしたり、プレッシャーのもとにあるのです。
周りとの関わりのなかで生きている以上、それはある程度仕方がないことではないかと私は思います。
でも、たった一つ、プレッシャーのもとにいても、完全に自由意志を使うことができる行いがあります。
それが「祈り」です。
祈りというのは唯一の完全な行いです。
たった一つの完璧な行いです。
つまりその行為の中で自由が何ひとつ妨げられていない完璧な行いなのです。
インドでは、祈りが生活の中にある文化なのですが、日本では、「困ったときの神頼み」的に、困難な状況の時に、私たちは祈ることが多いと思います。
祈ることも、祈らないこともできるけれど、祈ることは、ただ一つ、誰にも何にも妨げられずに選ぶことができる行いです。
他の人から「祈りなさい」と言われてできるものではなく、自分からおこるものです。
祈りを選ぶことで、自由意志を使う練習になり、自由意志を強化することができます。
祈りもまた、行いです。
ドリシュタ・パラと、アドリシュタ・パラを得られます。
祈りによって自由意志を強化できること、祈っているときの気持ちの落ち着きや喜び、そのようなドリシュタ・パラがあります。
祈りによって、私たちには目に見えない、関与できない要因が働くというアドリシュタ・パラ。
「困ったときの神頼み」も、何か目に見えない要因が、祈りによって働くことを知っているってことですよね?
神・イーシュワラに対して祈るという特別な行いは、必ず結果を作り出し、プンニャ・恩恵があります。
次回は祈りの効果についてです。