緊張のない私、緊張のない人間関係のために
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
お祈りのお話から。
考えを使った祈りという行い、すなわち瞑想についてのお話が前回の16話から始まりました。
さまざまな瞑想方法がありますが、伝統的な瞑想の定義は、
「サグナ・ブラフマ・ヴィシャヤ・マーナサ・ヴャーパーラハ」
グナ(質)をもって現れたイーシュワラを対象とした考えの活動
です。
そして、瞑想の前の準備について言われました。
「外側のものを外側に置く」ことです。
特に身近な人に対して、「こうして欲しい、こうして欲しくない」と欲求を持ってしまう私。
自然に対して、「そういうもの」として受け入れるのと同じように、
周りの人、私を悩ませる出来事、周囲の環境、それらに対しても、「そういうもの」として受け入れることができれば、イライラしたりせず、穏やかでいられるのに、と思います。
私を悩ませているのは、外側のものを内側に持ち込んでしまう自分、なんですよね。
今回は第17話「考えの行い、瞑想 その2」です。
「外側のものを外側に置く」を詳しく見ていきます。
瞑想って、ただじっと座って、静かにしていればいいのではありません。
「考え」の活動なのですから。
では何を考えるのか、その対象は、イーシュワラだと定義されています。
座ってすぐに、イーシュワラを想いなさい、考えなさい、と言われても、難しいですよね。
なので、段階を踏んで、ステップを辿って、瞑想を行うのです。
瞑想のためのステップ、準備の段階で、「外側のものを外側に置く」ことが重要と言われました。
そうすることで、どうありたいのかというと、
ただ認識している人、気づいている人、としての自分を発見します。
そうなれば、自ずと瞑想ができると言われています。
「ただ認識している人」とはどういうことでしょう?
例えば、苦手だなと思う人を見た時。
ふと視界に入った○○○さんに対して、
「あ、○○○さんだ。」
と気づきます。
その後、
何かしら不快な感覚が生まれたり、体が緊張するなどの反応を起こしたり、
「近寄らないでおこう」とか考えたりします。
「○○○さんだ。」
という認識のあとに、自分の過去の経験からの記憶が、緊張を引き起こしたり、さまざまな考えが浮かんだりするのです。
基本的に人は、ただ認識しているだけなのに、その認識に、自分の主観的な見方を上乗せしてしまうのです。
「ただ認識している人」というのは、
「○○○さんだ。」
終わり。
です。
それ以上でもそれ以下でもなく、ただ○○○さんに気づいただけ。
これが上乗せのない客観的な見方です。
緊張のない、ただ認識している人。
その人が考えでイーシュワラとの関係にハイライトすることが瞑想なのです。
そのために必要なのが、「外側のものを外側に置く」こと。
私は、人々が私の思うように振る舞うことを期待します。
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なぜでしょう?
それによって私はより心地よくいられるからです。
何も間違ったことではありません。
しかしながら、彼や彼女がたまたまそういう人であって、もし変わって意味があると思っていないからであれ、変わることができないからであれ、たくさんの理由があるでしょう。
その人の背景に何かがあって変えられないのかもしれません。
その人とはそういう人なのです。
外側のものを外側に置いておけずに、身近な人の振る舞いを考えの中で責めたり、実際に感情的にぶつけてしまったりして、自分のことをさらに苦しめます。
他の人を変えようとしても、それは私にできることではないのに、その人が変わってくれないからと不満を抱えて自分は無力だと思うことが、どれだけ相手と自分を傷つけるのでしょう。
相手に変わることを要求することも、相手から変わって欲しいと要求されることも、どちらも苦しいのです。
「なぜあの人は、こういうことを言うのだろう?こういうことをするのだろう?私には理解できない。」
そう思う時、ちょっと考えるようにしています。
「私から見ると、あのようなことをする人は、酷い人だと見える。
けれども、それは私の主観的な見方なんだな。
(私以外の人には、そう見えないかもしれない。)
あの人がそうするのは、何か背景があるのだろう。
あの人の振る舞いを、そう受け取ってしまう私にも、何か背景があるのだろう。」
そう考えると、その状況が客観的に見えて、感情的にならずに済むことが多いですし、
繰り返し練習すると、「あの人はそういう人なんだな。」で終わり、それ以外何も思わなくなります。
「私には、そう見える」のは事実ですが、「あの人はこうに違いない」と決めつけるのは主観的な見方になってしまいます。。
相手にも自分にも、そう振る舞う、そう受け取る背景があることを思うと、お互いに愛情を持って関係を保つことができるでしょう。
あなたの愛といたわりを持って、その人がそういれるための自由を認めることは、率直に言って少しも難しいことではありません。
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なぜならあなたがその人を愛していて、いたわっているのですから。
自由を認めるとは自由を与える行為です。
あなたはできます。それは自由を与える行為です。
何を行うのでしょう?
次のように言いなさい。
「この人はこういう人なのだ。」これで完全に終止符を打ちなさい。
「少しも難しことではありません」と言われましたが、いえいえ、私には難しいです。。。
こうしてほしい、と身近な人に期待してしまう自分がいます。
でもそれは、自分が心地よくいられるから、相手に要求するのであって、相手のためではなかったりするのです。
相手がそのままで振る舞う自由を与えることは、自分自身にも自由を与えることになります。
私が執着してしまう人、気になる人、それらを外側に置き続けることは、相手との関係を切り捨てることではなく、愛といたわりを持ち続けることです。
これは難しいことではありません。可能です。
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あなたに必要なことは理解です。
これなしに瞑想はありません。
こういったこと全てが瞑想です。
瞑想の準備として「外側のものを外側に置く」ことを言われましたが、瞑想だけでなく、日々の人との繋がりの中で、緊張やストレスなく、関係を保つためにも必要なことだと想います。
これが常にできていたら、どんなに楽でしょう。
今の私には難しいです。特に家族に対しては。
でも、可能だというのなら、できるように練習し続けようと思います。
次回は瞑想の話題、最後になります。