助けを求めることは賢い生き方
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
お祈りのお話が続いています。
「祈り」という行いの中でも、手足・体を使った行いが「儀式」です。
人間が生きていく中で、必ず破壊がある、というお話がりました。
食べることも、植物の命を破壊しています。
自分で見えないところで、何かを傷つけていることもあります。
それが「生きていく」ということなので、極力傷つけないようにしながらも、助けの手を差し伸べる行いや儀式をすることで、傷つける行いを中和することが大切だと言われました。
今回は第15話「言葉での祈り」です。
「運が良かった!」
「運が悪かった」
「たまたまうまく行った」
生活の中で、そんなふうに思ったり、言ったりすること、よくありませんか?
私も以前は、よくそう思ってました。
ヴェーダーンタを学んでから、「運が良いとか悪いとか、たまたま、偶然」、というように見えるけれども、今の状況・結果は、何かしらの行いの結果なのだと思うようになりました。
行いと行いの結果の法則は、わかりやすく目に見えていないので、私がかつて行ったことの結果が、今返って来ているということだけはわかりますが、どの行いの結果が、いつ返ってくるかは、限られた範囲しか見えない私たちには知ることはできません。
私だけでなく、様々な人の行いとその結果が絡み合っているので、本当に複雑ですよね。
確実なのは、行いの結果だ、ということです。
努力していてもうまく行っていないと思うとき、もしかしたら、自分の過去の行い、何か傷つけたりアダルマな行いの結果なのかもしれません。
その過去の行いを変えることはできませんが、祈ることで結果の実り方を変えることがあります。
祈りによって、和らげることも可能なのです。
例えば。事故にあって大変な状況になったとしても、幸い軽いけがで済んだなら、自分の祈りやまたは自分の無事を願う他の人の祈りが作用したのかもしれません。
物事がうまく行かないとき、
あらゆる手を尽くしても、先が見えないとき、
やってもやっても、望んだ結果が出ないとき、
苦しくて、絶望して、そういうとき、どうしますか?
人間にとっての最悪の状況は何の助けもないことです。
精神的に人を無気力にしてしまいます。
ですから、活動ができなくなってしまいます。
それはまた人の平安を破壊します。
この精神的な無力感は完全なもので、部分的なものではありません。
その人の全体が無力になってしまいます。
何の助けもなくどうしようもないのですから。
何の助けもない、ヘルプレスのとき、どうするでしょうか?
誰もが絶望的な状況になったことがあると思います。
助けがないときに、何ができるのか。
これだけは、誰もが出来ることがあります。
祈ることです。
人は「どこか」に助けを求めます。
たった一つの「どこか」があります。
それがイーシュワラなのです。
それが生きるということです。
人間は賢く生きなければなりません。
賢い生き方とは、助けが必要なときに助けを求める生き方なのです。
それ以外の賢い生き方などありません。
私たち人間には、いろいろな面で限界があります。
私の知識には限界があるし、持っている資源も限りがあるし、時間にも限りがあるし、すべてに限りがあります。
自分の限界を理解して、必要なときに助けを求めることは賢い生き方だというのです。
どうしようもないとき、全知全能のイーシュワラに助けを求めて祈ることも、賢い生き方なのです。
以前の私は、いわゆる「神頼み」って、良い印象がありませんでした。
自分が努力しないで、神にすがっているような印象を持っていたのです。
そして困ったときに「助けてほしい」と周りのひとに伝えることも苦手でした。
(今もちょっとそうかも)
助けを求めるって、自分は実力がない、弱い、ということになるし、人に頼ってはいけない、と思ってきたのです。
でもそれは違って、助けを求めることは、何ら恥ずかしいことでも、負けでもないと思うようになりました。
日本の社会では、人に頼るってネガティブなことのような雰囲気があって、助けを求めることを躊躇する人が多いのではないかと思います。
それで自分を追い詰めてしまうことも多いのではないのでしょうか。
お互いに助け合って、生きていけたらいいのにと思います。
何も助けが無いと思うとき、どうしようもないとき、
たった一つの「どこか」
に助けを求めたことはありませんか?
「神様、お願い!」と思ったことはありませんか?
それがイーシュワラなのです。
日本でも神社仏閣があって、祈ることが日常にまだあるのは、とても幸いなことですね。
「困ったときの神頼み」という言葉があるくらいですから。
祈るという文化や生活の中にいなければ、祈る・助けを求めることを知らなかったかもしれません。
そして言葉による祈りの話題です。
祭壇や道具を必要とする儀式よりも、手軽にできることが長所です。
より少ない努力で祈ることが出来るので、プンニャは少ないそうです。
言葉による祈りの例として、
神を尊ぶうたを歌うこと、祈りの詩を詠唱すること、マントラを正しいスヴァラ(音階)でチャンティングすること、などがあります。
音楽や唄うことに没頭すると、自分の目の前にある問題や、自分の役割、すべきことなどを一旦手放して、ただの「私」、感情や考えに巻き込まれていない「私」を垣間見える、そのような解消を体験します。
その解消が祝福であると言われています。
そして次回は、マーナサ・考えの祈り、瞑想についてです。