統括神・デーヴァターと儀式

月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。

私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。

お祈りのお話が続いています。

お祈りという行いにも、3つのレベルがあります。

カーイカカルマ、手足を使い、言葉・話す機能を使い、考えを使う行い。

ワーチカカルマ、言葉・話す機能を使い、考えを使う行い。

マーナサカルマ、考えを使う行い。

儀式は、ワーチカカルマです。

儀式のための準備、道具を含み、手足という体を使い、言葉を使い、考えを使います。

ワーチカカルマは、最も行いの結果・ドリシュタパラ(目に見える結果)とアドリシュタパラ(目に見えない結果)を得ることができます。

話す機能を使った行いや考えを使った行いよりも多くの行いをしていますからね。

今回も儀式のお話です。

第14話「多くの神々と多くの儀式」

大好きなシヴァテンプル。ナンディと同じ目線でシヴァ神を見つめる。

私はこの勉強をはじめてわかったことがたくさんあるのですが、その中の一つがこれ。

「インドには神様がたくさんいる、と思っていたのは間違っていた」ということです。

シヴァ神とか、サラスワティーとか、たくさんの神様がいるのに?

と思いますよね。

日本も八百万の神がいると言われているので、同じように思っていました。


しかし、学んでいくについれ、それは違うのかも、と思うようになったんです。

世界はすべてイーシュワラ(神)の現れであるなら、神しかいないのです。

「たくさんの」とか「一人の」ということではありません。

「神しかない」のです。

なので、たくさんの神がいるのではないのです。

「いやいや、ではシヴァ神とか、ガネーシャは何か?」というと、

この世界の知的な源、物質的な源である神、

全知であり、公平であり、全能であり、究極の名声であり、あらゆる資源であり、絶対的な君主である神をある側面で捉えているのが、シヴァ神などの統括神・デーヴァターです。

世界の創造の側面をみれば、神はブラフマージというデーヴァターとして現れているし、破壊や清算の側面でみればシヴァ神、この世界の記憶として維持している側面から見れば、ヴィシュヌ神。

火を司る(統括する)アグニ、水を司るヴァルナなどなど、それぞれの側面を統括しているデーヴァターなのです。

インドには様々な儀式や祈りがありますが、それはそれぞれのデーヴァターに対して、それに合わせた儀式があるからなのです。

たとえば、「雨を降らせてほしい」という願いを叶えてほしいなら、水の神様に祈りますよね。

実際はこんなにシンプルではありませんが、目的にあったデーヴァターに祈るのが最も有効です。

このようなある特定の結果を求めて行う儀式もあれば、もっと広範囲に効果的な(幸せや平和を願うなど)日々の儀式もあります。

なぜ日々の儀式が必要なのか、という理由が述べられているのですが、私は今回、ここに最もドキッとしました。

たくさんの見えないことがあります。
あなたが人生をおくるとき、たくさんの破壊をしますし、人々を傷つけます。
生き物を傷つけます。痛みを与えます。
特に競争社会ではお互いに傷つけあうためのルールを持っています。
そして私たちはルールに従います。
人を傷つけて良いようになっています。
今回は私があなたを傷つけますが、次回はあなたが私を傷つけます。
私たちはお互いに傷つけあうルールを持っています。
法的に認められた攻撃です。
まさに生きるとはそう言うものです。

どれだけ傷つけないように気をつけていても、私が知らないところで何かを傷つけていることは多々あると思います。

生きるために食べることですら、傷つけることにもなるのですから。

傷つけるつもりでしたのではなくて、結果的に傷つけてしまうこともありますよね。

何かを傷つけたという行いは、いずれ私に返ってきます。

その結果を少しでも中和する、和らげるために、救いの手を差し伸べることや儀式・祈りが必要と言われています。

そしてそれには「選択」はない、と続けて言われます。

「正しい」と知ったなら、「間違ったこと」を選ぶという選択はないのです。

ただ正しいことしか選択肢がないので、「選択はない」のです。

儀式・祈りも、正しいと知ったなら、行うしかありません。

「しようかな、やめようかな」という迷いと選択はありません。

そしてもうひとつ。

私がヴェーダーンタを学んでいて、同意することなんですが、

生きる上で、傷つけることは避けられないし、それがまさに生きることだと認めていることです。

傷つけないために、競争社会で生きるのはやめましょう、山にこもって修行しましょう、と言っているのではないのです。

状況を受け入れつつ、ではどうするのか。

出来る限り傷つけないことはもちろん必要ですが、極端な考えではなく、とても実用的な考えであることが共感というか、同意するところです。

まだまだ祈りについて続きます。



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