神とは何か?
月1回のヴェーダーンタ勉強会、スワミ・ダヤーナンダジ(私の先生、スワミ・チェータナーナンダジの先生)のテレビ番組「スピリチュアル・ヘリテージ」の日本語訳をみんなで読んでいます。
私個人の振り返りと、整理のために、ブログに思ったことを書いていこうと思います。
第5話では、私たちの身体を例に、すべて与えられている、ということと、それならば、身体の作者・与えている人がいるはずであること、その人を神というお話をみていきました。
第6話・第7話は、「神とは何か?」です。
「神はどこにいるのか?」ーどこか上の方にいる?
インドでは、いたるところにある、というお話が最後にありましたね。
第6話では、そもそも、「神はどこにいるのか?」という質問自体がおかしなものだというのです。
神は空間に居場所がある個人とみなしているから、そのような質問をする、というのです。
言われてみれば、そうだなーと思います。
そして、もし神はいない、というなら、その神を知らなければ、「いない」とは言えないはずです。
それもそうですよね。
知らないものを、いるのか聞かれても、いるともいないとも答えられないはずです。
なので質問は、「神はどこにいるのか?」ではなく、「神とは何か?」なのです。
第5話で、身体を含めたこの世界のすべては与えられていること、その与えられているものは、すべて組み合わされていること、組み合わされているということは、組み合わせた人・作者がいるはずでは、というお話がありました。
一輪の花も、私たちの体も、動物の体も、他の生物も、この世界・宇宙も、見事に知的に組み合わされています。
この宇宙だって、一つの大きな生命です。
この宇宙のすべてを知り尽くして、組み合わせているひと、作者がいるはずです。
更に、その人は、この宇宙を創る力があることもわかります。
この身体を作って、維持しているのは、何の力でしょう?
私の力ですか?
「自分の力でこの身体を作って、生まれてきた。」なんて、とてもじゃないけど言えませんよね。
更に、この身体を構成する、筋肉や骨、水、それらも遡れば、分子や原子、素粒子から成っていますが、身体の材料はどこから手に入れたのでしょう?
材料は作者から離れたものであり得るでしょうか?これは重要な質問です。神は何も無い、つまり無からこの世界全体を作ったとあなたは言えません。何も無いところから、何を作れますか?何も作れません。何も無いところから、何も作られません。
無からこの宇宙を作ることはできません。
作られたものがあるということは、そこには材料である源があります。
シャツは布から作られていますが、シャツがあるところには、材料である源・布があります。
宇宙が作られているということは、材料である源もあり、その源は、神なのです。
作者と材料の源は、離れたものではありません。
私たち人間が作ったものは、作者と現れた作品が別・離れたもの(例えば、ポットは作者がいて、ポットの材料は土なので、作者と材料は別)なので、ちょっと理解しにくいかもしれません。
この宇宙はすべて空間の中にありますが、もし作者と材料が別であれば、作者が空間の材料を別の空間から持ってこなければなりません。
布からシャツが作られるように、現れたシャツは布から離れたものではありません。
材料と現れたものは別の物ではないのと同様に、この現れた宇宙と材料は、離れたものではありません。
別の空間から材料を持ってくることはできないのです。
この宇宙をすべて知りつくし、世界を現す力を持つ、全知全能の神。イーシュワラ。
一般的に、この宇宙の「創造」というとき、天国か上の方か、どこか別の世界にいる創造主・神様が、どこかから材料を持ってきたか、作ったかして、この世界を創造しました、というイメージを持たれていると思います。
インドでは、ヴェーダサンスクリット語で、「スルシュティ」と言います。
スルシュティは、神は「創造」するだけでなく、あらあれた世界の材料の源でもあり、その源から現れた、神の「現れ」でもあるのです。
だから、「神はいたるところにある。」
先生がよく仰るように、「神でないところはない」のですね。
「インドには神様がたくさんいる」とよく言われます。
私もそう思っていました。
真実は、
私たちは一人の神がいるとは言いません。私たちはたくさんの神がいるとも言いません。私たちは神だけがいるというのです。
日本も、たくさんの神が、八百万の神がいて、万物に神が宿る、という世界観・文化・宗教がありますね。
私も日本に生まれて生活しているので、とても馴染んだ見方です。
インドの文化・宗教は、「神だけがいる」というのを、漠然と伝えるのではなく、論理的に説明しているんです。
これは、信じる・信じないというような信仰の話題ではなく、理解する話題です。
1+1=2を理解するのと同じように。
(私も完全に理解しているわけではなくて、おそらくそうだろう、だから知りたい、という理解の保留状態です。それをシュラッダーと言います。)
神・イーシュワラとは何かを理解した上で、次回は、行いの結果をどのように受け取るか、という話題に帰っていきます。